2007年2月20日

二重の世界

「我々は二重の世界で生活している」
と私が言っても、誰も驚かないでしょう。

第一の世界は、
痛みと別れ、愛と悲哀、幸せと恐怖、善悪がある場所です。
この世界には、苦しんでいる人、喜んでいる人、辛い人、幸せな人がいます。
そして、この世界は、
元に戻る道はなく、過ぎ去った場所に二度と戻ることのない
河の流れのようなものです。
そして、自身はこの巨大な河にある一つの小さな滴であることを知り、
この急流の中をさかのぼることはできないことを知りながら、
先の行方や展望を知らず、ただ黙々と、泳いでいきます。
これが現実です。

これから話す世界は、一つ目のものとは、全く異なります。
この世界はさまざまの姿を持ちます。
世界は永遠であり、悪というは存ぜず、
そこでは滴はなく自身が河であり、
前にも後ろにも自由に方向を変え進むことができ、
誤りは修正され、自分自身がもっとも重要な存在です。

あなたにあるその世界は、
自身の望むように、あるべき姿で存在します。
痛みと別れも、辛さも不公正もないこの世界。
この世界は人により異なる、
という唯一つの例外を除いては。
似ても似つかぬ自己の裁量によりそれぞれ異種に構築される自己の世界。
この世界は、我々各々の頭の中に創造される仮想のものです。
そして、この世界には現実世界の歩みを予見する
という宿命があります。

この2つの世界は、
仮想世界がプレーヤーで、現実世界が駒であるチェスになぞらえることができます。
プレイヤーは駒の作用をほぼ知っています。
もし、賢明さか何かしらの指令により、仮想世界を利用するのであれば、
自らの誤りを縮小させるか、
優秀なチェスプレイヤーのように、危険を察知するでしょう。
しかし残念なのは、
避けることのできたあやまちを犯し、誤りについて考え始めるのが、
すでに遅い時期である、という人々がいることです。



旅人(神奈川在住) --- 2007年2月28日

> この2つの世界は、
> 仮想世界がプレーヤーで、現実世界が駒であるチェスになぞらえることができます。
> 避けることのできたあやまちを犯し、誤りについて考え始めるのが、
> すでに遅い時期である、という人々がいることです。

面白い例えですね。
誤りが起きたのであれば、避けることが出来なかったことを意味します。
それがその時点での実力だったのです。
その誤りを経験し、誤りを防ぐ方法を学び、
優秀なチェスプレイヤー に成長していくのです。
初めから優秀なプレイヤーなどいません。
10年前のあなたと今のあなたはどちらが優れていますか?

誤りに気づいたのが早いか遅いかは重要ではありません。
気づいた過ちを繰り返さないために成長出来るかが重要だと思います。






2007年2月15日

人生とは何か (その2)

人間は知を具えた存在であることはすでに述べましたが、
我々はその可能性を利用していません。

人の可能性は限りないものです。

現代の人間は、コンピュータやプログラム化された何かしらのシステムにたとえられます。 乱暴に言葉を使って言えば、そのプログラムは「生存」と名づけられます。
我々は、食料、金銭、何かしらの物質を必要としていることを知っているだけのことです。
その欲望は、我々から真実へとつながる視覚、聴覚を奪う要因となる課題の一つです。
我々はいつも、人は動物と同じく本能的に生きているにすぎないことを思うことなく、 知的な創造物であり、動物よりも相当優れている、とみなしています。

我々は、人生の大部分の時間を、
ただ何を求めているのかを探す作業に費やしていることに、気づいていません。
そして、何も見つけられずに、常に人生を非難することでしょう。
我々は、人類自身のために、その自身の可能性を使うことができなかったことは、
残念なことです。



旅人(神奈川在住) --- 2007年2月28日

人間は本能と理性両方持ち合わせています。
時に本能が勝り、 時に理性が勝る。
理性は文化でもあります。
動物と人間の大きな違いは「知識」「経験」という「文化」を他人 に継承していくことが出来ることだと思います。
そういう意味で優れているのは事実だと思います。
昔の個人より今の個人の方が出来ることは大きいでしょうね。

人生を非難する人は
「自分のやりたいことを見つけられなかった」
そして
「やりたいことを出来なかった」
人なんでしょうね。
そういう人は 人生を非難ではなく、後悔するでしょう。
ですので自分のやりたいことを見つけましょう。
自分のやりたいことは自分にしかわかりません。
自分の人生 を豊かにするか、後悔にするかは結局自分次第です。

すべての人にとって、
自分の可能性を人類のために使えるかどうかは
重要ではありません。
自分の可能性を人類のために使いたい人にとっては重要なのです。
自分の可能性を何に使いたいのですか?






2007年2月3日

人生とは何か

  今回は人生について思うことを話したいと思います。
誰しも “人生とは何か”という哲学的命題に興味を持つことがあると思います。
このことについて考えても、何か回答が得られるというよりも、ただ単に、それ以上の疑問が湧き出てきてしまうものだと思います。
この疑問については、際限もなく考えることができ、結局のところ、何かしらの明確な結論を見出すことはないものです。
  私も、この命題について、時折、思いを巡らせますが、毎度、答えはなく、ただ先へ先へと話が展開していくように感じられます。
そして、私はこの命題を考えるとき、いつも、人間のある問題が頭に浮かんできます。
人は、自然界を破局に導く大変動の要因であり、かなり危険な兵器とたとえることができます。
人は、この世界で知性を備えた存在として知られています。
しかしその知が、内面的、また物理世界において、人間自身を滅ぼしていきます。
そして、ここで強調したいことは、人生の問題-それは人間自身、ということです。
なぜならば、我々がこのような状況を作り出し、自身で視覚、聴覚を奪い、ただ言葉の内に、真理から遠く彷徨っているのです。
  我々は誰が正しく、誰が悪いのかわかりません。
今、人類は自分たちは自由である、と思っています。 ただその自由は、肉体的、物理的なもので、情報の奴隷なのです。
そして、我々はただ自らのみを知る孤独な存在であることを、知っています。
  これが言いたかった私の解決できていない人生の命題の全てではありません。
次第にその謎は、深まっていきます。



旅人(神奈川在住) --- 2007年2月14日

まぁ誰しも考え、そして答えが出ない問いの典型ですね。
範囲が広すぎるため、考える焦点を絞った方が良いと思います。
例えば、

1、自分自身における人生の意味とは。
2、人との関わりにおける人生の意味とは。
3、自然や動物との関わりにおける人生の意味とは。

とか。全部まとめて完璧な答えを出そうとするとまとまりませんよ。

人生とは人それぞれが考えるべき命題であって、
ひとりが正解に 辿り着いたとしても、
他の人間が間違っていたら、結局世界はその方向に動きます。
人間が滅びの道を歩んでいても、
一人一人を見たとき間違っているとは言えないのですよ。
ですので、視点を世界平均に置くよりも、
まずは自分において考えた方が良い。上のステップのように。
で、自分なりの答えを出して、精一杯努力することに尽きると思います。
結果人間が滅びの道を歩んだとしても、
誰しも自分が正しいと思うことを行う、それしか出来ないので。




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キルギスタン
ビシュケク在住

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